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病気の意味を探すことを、やめてみた

8月7日
読了時間: 5分

「病気には意味がある」

「病気になることで、何かを得ている」

「その状態が、あなたにとって都合がいいから続いている」


心理学やスピリチュアルな世界では、ときどきそんな考え方に出会います。


ずっと昔、私は宗教活動をしていました。

「あなたの信心が足りない」


病気になると、

「信心が足りないから」

「もっと題目をあげなさい」

「それはあなたの宿命だから」

と言われることがありました。


身体がつらい。

それだけでも苦しいのに、

苦しんでいる自分には、何かが足りない。

そんな意味まで加わってしまうのです。



時が経ち、今の私はHealyやTimeWaverに携わっています。


昨年から、体調を崩している私に、

「Healyを使っているのに、どうして?」

「TimeWaverもあるのに?」

と言われることがあります。


もちろん、悪意があって言われているわけではありません。

でも私の中では、昔聞いた言葉とどこか似た響きを持つことがありました。


「信心しているのに、なぜ病気なの?」

が、

「周波数を整えているのに、なぜ病気なの?」

に変わっただけなのではないか。


さらに、

「病気は本人の役に立っている」

「病気でいることに、本人にとって何らかのメリットがある」

という考え方にも触れてきました。


確かに、人の心は複雑です。

ある状態でいることが、

無意識のうちに自分を何かから守っていたり、

休むことを許してくれていたりすることはあるのかもしれません。


だから、その視点そのものを私は否定したいわけではありません。

でも、それをすべての病気や苦しみに当てはめたとき、私はとても苦しくなりました。


「では、私はこの病気を望んでいるの?」

「治らないほうが、私には都合がいいの?」

「私の無意識が、この状態を選んでいるの?」


身体が苦しいだけではなく、

苦しんでいる原因まで自分の中に探さなければならなくなったのです。



もう、何もしたくなかった


先日、とうとう張りつめていたものが切れました。


夫の前で泣きながら、

「Healyも、何もかもやめたい」

「もう全部から離れて、こもりたい」

「もしかしたら、それが今の私が本当に望んでいることなのかもしれない」

そう言って、数時間泣きました。


身体がつらい。

それだけでも十分につらいのに、


「私は何を間違えているのだろう」

「私の無意識が病気を望んでいるのだろうか」

「この状態が私にとって都合がいいということなのだろうか」


そんなふうに、自分の中にまで原因を探し続けることに疲れてしまったのだと思います。


もう、何もしたくありませんでした。

ただ「自分に戻る」


そこから少しずつ、

「自分の周波数に戻ります」

と意図するようになりました。


何が原因なのかを探すためではありません。

症状を消すためでもありません。


痛みがあったら、

「自分の周波数に戻ります」


不快感があったら、

「自分の周波数に戻ります」


苦しくなったら、

「自分の周波数に戻ります」

それだけ。


そしてある朝、ふと思いました。

「今日は夕方、ほんの少しでも外を歩いてみる」

そう意図しました。


その日も下痢は続いていました。

痛みもあり、不快感もいっぱいでした。


夫はそんな私の身体をさすり、経口補水液を買いに走り、

ずっと寄り添ってくれていました。


実際に歩けるかどうかなんてわかりませんでした。

ただ、

「夕方、少し歩いてみよう」

そう思っただけでした。


そして夕方


不思議なことに、その日の夕方、

外へ出てみよう。

と思えたのです。


夫に、

「ちょっと近所を一周してくるね」

と言いました。

すると、

「え、待て待て。心配だから、あとついていくよ」

と、慌てて出かける支度を始めました。


「本当にぐるっと一周するだけだよ。500メートルくらいだから」

と言っても、ついてきます。


そして夫は、私の歩調に合わせて、少し後ろをゆっくり歩いてくれました。


ほんの近所です。

ずっと昔から知っている道です。


でも、その日は少し違って見えました。

何気なく生えている雑草に触れました。


こんなところにあったことさえ気づかなかった、イチジクの木を見つけました。


「こんな涼しげな場所、あった?」

そう思って足を踏み入れてみると、

あれほどクマゼミの声ばかりが聞こえていたのに、そこではミンミンゼミがしっかり鳴いていました。


小さな川には、とてもきれいな水が流れていました。


近所って、こんなに素敵なところだったんだ。

何年もそこにあったはずなのに、

初めて見つけたような気持ちになりました。



身体の問題がなくなったわけではありません。

その日も症状はありました。


何か大きな成功をしたわけでもありません。

特別な能力が開いたわけでもありません。

病気の原因がわかったわけでもありません。


それなのに私は、

夫の愛と、

足元の草と、

イチジクの木と、

セミの声と、

流れる水と、

ずっとそこにあった道の美しさを感じていました。



「もっとできるようになったら」

「もっと自分を整えられたら」


その先に幸せがあるのではなく、

私はずっと、幸せの中を歩いていたのかもしれません。

ただ、それを見る余裕がなかった。


自分に戻るということは、

何か特別な自分になることではなく、


すでにここにあるものを、もう一度感じられる場所へ戻ることなのかもしれません。


病気が私にこの景色を与えた、と言いたいわけではありません。

病気になったから夫に愛された、と言いたいわけでもありません。


まして、

「病気にはこんなメリットがあるのだから、あなたが望んでいるのだ」

という話でもありません。


むしろ逆です。

苦しみに意味を与えなくてもいい。

苦しんでいる自分を分析し続けなくてもいい。


その瞬間にある身体を大切にしながら、

ただ、自分に戻る。


そうしたら私は、

ずっとそこにあったものに気づきました。


それは「病気のメリット」ではありませんでした。


病気とは関係なく、

ずっとそこにあった夫の愛であり、

ずっとそこにあった世界の美しさでした。


そして私は、

それを受け取ることができました。




——次回、

「苦しみは『自分の力への抵抗』から生まれる」

へ続きます。

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