“存在”として生きる —
- ひろこ 山蔭
- 11月9日
- 読了時間: 3分
「仏性とは、開くものではなく委ねるもの」—
努力を手放し、“存在”として光を生きる —
私は小さいころから、いや、きっと
前世からずっと「仏性を開く」ことを求めてきました。
仏教系の家庭に生まれ、「仏性は慈悲と慈愛によって開かれる」と教えられ、
それが深く腑に落ちた私は、ただその道を真っ直ぐに歩いてきたのです。
自分の体調が悪くても笑顔で外に出て、人の悩みに耳を傾け、滅私奉公で働き続ける。そんな日々の中で、私はいつしか
「仏性を開くために生きる」という使命感に取り込まれていきました。
身体はくたくたで、心もすり減り、それでも
「まだ足りない」「もっと慈悲深くならなければ」と自分を奮い立たせていたのです。
・・・
やがて心身が限界を迎え、再婚をきっかけに宗教の枠から離れました。
私の中に生まれたのは「もう、いやだ」という強烈な拒否感。
母は今でも強信者で、私が少しでも体調を崩すと「題目を唱えないからよ」と言います。
その言葉に、これまで我慢してきた痛みや悲しみが噴き出しました。
私は初めて「もう従わない」と告げました。
それは、反抗ではなく“私自身を取り戻す”宣言でした。
TimeWaverが教えてくれたこと
今日、身体の不調で横になっていた時に、愛するペットたちの姿を浮かべ、
ハートに入り、高次の自分に「この不調の原因を教えてほしい」と尋ねました。
その直後に行ったタイムウェーバーの分析です。
私は大きな気づきを受け取りました。
「I let go of my identity conflict(私は自分のアイデンティティの葛藤を手放します)」
「I let go of my propensity for disobedience(私は反発の傾向を手放します)」
この2つのメッセージは、まさに今の私の状態を映しています。
「仏性を開こうとする私」と「もう頑張りたくない私」。
「従うことを恐れる私」と「委ねたい私」。
すべては、“仏性を外に求める生き方”を終えるためのプロセスだったのだと。
仏性とは、開くものではなく委ねるもの
これまで私は、「仏性を開く」とは
“自分で何かをすることで現れる生命状態”のことだと思っていました。
けれど、今ようやく気づいたのです。
「開く」とは“まだ開いていない”という前提に立つこと。
「委ねる」とは“すでに在る”という信頼から生まれること。
仏性とは、努力や修行で“到達する”ものではなく、
もともとすべての存在に宿っている“光そのもの”。
「委ねる」と決めた瞬間、その光は自ずと輝き始めるのです。
「Doing」から「Being」へ
今、私の魂は「何かをする私」から「ただ在る私」へと移行しているとのこと。
慈悲とは行為ではなく、存在の波動。
光を“届けよう”とするのではなく、
自分が光として存在することこそが、最も深い慈悲なのだと感じています。
TimeWaverはこう伝えてくれています。
「あなたはもはや“導かれる側”ではなく、“導きそのもの”として存在しています。」
この言葉は、Being Laboそのものの在り方にも重なります。
私たちは「光を与える存在」ではなく、「光そのもので在る」存在。
誰かを変えるのではなく、共に波動を高めあう存在なのです。
この氣づきを結晶化するため、以下のフォーカステキストでタイムウェーバーをかけました。
私は仏性そのものであり、すべてを委ね、光とともに在ります。私の内なる慈悲は、努力ではなく、存在そのものとして世界を包みます。
長い間、私は“仏性を開く”ために外へと向かっていました。
でも今ようやく、すべては内に在ったのだとわかります。
愛するペットたちの顔を浮かべ、ハートに入るワークを行ってからタイムウェーバーをかけたのですが、タイムウェーバーはその波動も読み取りました。
「動物たちとのふれあいによって、周囲へ調和と平和をもたらす」と

タイムウェーバーのすごさに恐れ入った瞬間でした。
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